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第110話 崩れる音

Author: marimo
last update publish date: 2026-09-05 20:25:54

 その知らせは、あまりにも唐突だった。

 まだ午前の光がビルの隙間から差し込む時間帯。執務室には静かな緊張が満ちていたが、その均衡を破るように扉が勢いよく開かれる。

「社長、大変です」

 朝一番で執務室に飛び込んできた橘の表情を見た瞬間、藤崎優はただ事ではないと悟った。

 普段は冷静な彼女が、ここまで顔色を変えることはない。

「久遠ひかるさんの所属している《リバース・アクターズ》が……」

 一拍。

 空気がわずかに重く沈む。

「本日付で、破産申請を出しました」

 優の手が止まる。

 ペン先が書類の上で静止したまま、数秒が流れた。

 胸の奥を、鋭いものが突き刺したような気がした。

(……ひかるの会社が倒産!?)

 その名前が浮かんだ瞬間、押し殺していた感情が一気に動き出しかける。

 だが、それだけだ。

 驚きも、動揺も表に出さない。

 長年かけて身につけた元俳優という経営者の仮面は、こういうときほど崩れない。

「理由は?」

「粉飾決算です。数年前から経営が破綻していたようで……スポンサーが一斉に手を引きました」

 窓の外では、薄曇りの空が広がっている。

 今にも雨が降り出しそうな灰色の
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     その知らせは、あまりにも唐突だった。 まだ午前の光がビルの隙間から差し込む時間帯。執務室には静かな緊張が満ちていたが、その均衡を破るように扉が勢いよく開かれる。「社長、大変です」 朝一番で執務室に飛び込んできた橘の表情を見た瞬間、藤崎優はただ事ではないと悟った。 普段は冷静な彼女が、ここまで顔色を変えることはない。「久遠ひかるさんの所属している《リバース・アクターズ》が……」 一拍。 空気がわずかに重く沈む。「本日付で、破産申請を出しました」 優の手が止まる。 ペン先が書類の上で静止したまま、数秒が流れた。 胸の奥を、鋭いものが突き刺したような気がした。(……ひかるの会社が倒産!?) その名前が浮かんだ瞬間、押し殺していた感情が一気に動き出しかける。 だが、それだけだ。 驚きも、動揺も表に出さない。 長年かけて身につけた元俳優という経営者の仮面は、こういうときほど崩れない。「理由は?」「粉飾決算です。数年前から経営が破綻していたようで……スポンサーが一斉に手を引きました」 窓の外では、薄曇りの空が広がっている。 今にも雨が降り出しそうな灰色の雲。 嵐の前の静けさに似ていた。 優の頭の中では、すでにいくつもの可能性が走っていた。 ひかる自身に責任がなくても、世間は待ってくれない。 疑いは勝手に生まれ、根拠のない言葉が広がっていく。 彼女がどれほど真っ直ぐ生きてきた人間かなど、面白半分の記事を書く者たちには関係がない。「主演ドラマは?」「制作がストップしています。局側はキャストの総入れ替えを検討中と……」 つまり、久遠ひかるは、降板の可能性が高い。 優は椅子に深く腰掛けた。 背もたれに体重を預けながら、視線だけが鋭くなる。 頭の中で、瞬時に数字が走る。 違約金。制作費。スポンサー契約。放送枠。 そして何より、世論だ。 ひかるほどの女優が、倒産した事務所に所属していた。 それだけで憶測が生まれる。 不正に関与しているのではないか。 ギャラの未払いは? 税務は? 次に来るのは、必ずこれだ。 スキャンダル。「……もう出ています」 橘がタブレットを差し出す。 ネットニュースの見出しが並ぶ。『トップ女優・久遠ひかる 事務所破産の衝撃』『知らなかったでは済まされない?』『主演ドラマ白紙か

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    雨が降っていた。 春先の雨は嫌いではない。冬の名残を含んだ冷たさと、どこか新しい季節を予感させる柔らかさが同居している。街の輪郭を滲ませ、看板の色も人影も境界を失わせながら、余計なものを静かに洗い流してくれるようだった。 藤崎優は、車の後部座席から巨大なガラス張りの建物を見上げた。 灰色の空を映し込むその外壁は、どこか無機質で、近寄る者の感情を拒むかのように冷たい光を放っている。 東央テレビ本社。 かつては何度も俳優として訪れた場所だ。 若手だった頃、期待と不安を胸にこの回転扉をくぐった日のことも、主演が決まった夜にスタッフと笑い合った記憶も、すべてこの建物の中にある。 だが、もう違う。 あの頃の自分とは違う。 そして――今日、この場所で再び会うことになるかもしれない、あの女との関係も。「社長、五分後に制作局との打ち合わせです」「ああ、分かった」 短く答え、優は車を降りる。 黒のスーツに、無駄のない足取り。背筋はまっすぐに伸び、視線だけで周囲を黙らせるような静かな威圧感をまとっていた。 五年という歳月は、彼から“優しすぎた男”の面影を削ぎ落としていた。 今の肩書は、芸能プロダクション《FJエンターテインメント》代表取締役。 俳優・藤崎優を知る者は、もう業界でも少ない。知っていたとしても、それは過去の情報に過ぎない。 そうなることを、自分で選んだ。 表舞台から退き、人を支える側に回ることを。 誰かの人生や未来に責任を持つ立場になることを。 それは逃げではなかった。 少なくとも、そう思いたかった。 けれど、五年前のあの日から逃げ続けてきたものが一つだけある。(久遠ひかる……) 名前を心の中で呼んだだけで、胸の奥がわずかに痛んだ。 もう五年だ。 忘れていてもおかしくない。 いや、忘れなければならなかった。 自分から手放した女なのだから。 エントランスに入った瞬間、空気がわずかに揺れた。「あれ……藤崎優じゃない?」「え、俳優辞めたんじゃ……でも、やっぱりカッコイイ」「今、社長らしいよ」 小さなざわめきが背後に生まれる。 聞こえている。だが振り向かない。 過去に興味はない。 そう決めたのだから。 けれど本当は、興味がないのではない。 思い出せば、そこにはひかるがいる。 俳優だった自分。 『誰より

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    授賞式の熱気が、まだ身体の奥に残っていた。主演女優賞——久遠ひかる。自分の名前が刻まれたトロフィーを抱えながら、ひかるは控室の扉を静かに閉めた。途端に、世界の音が消える。さっきまであれほど鳴り響いていた拍手も、祝福の声も、もう届かない。ドレスの裾が床に広がる。ひかるはソファに腰を下ろした。そして——小さく息を吐く。指先が震えていることに気づいた。今さらになって、現実が押し寄せてくる。(……本当に、取ったんだ)胸の奥が熱い。だが、不思議と涙は出なかった。代わりに込み上げてきたのは、長い時間の記憶だった。売れなかった頃。オーディションに落ち続けた日々。名前すら覚えてもらえなかった現場。悔しさを飲み込みながら、笑顔を作ることだけが上手くなっていった。——それでも、やめなかった。誰にも見えていない場所で、積み上げてきた。そして、婚約者だと思っていた人に、家政婦呼ばわりされていた苦い思い出。そのすべてが、今夜、報われた。ここへ、女優という場所に戻って来てよかった。ひかるは、トロフィーを撫でる。冷たい金属の感触。そのときだった。コンコン——控室の扉が叩かれる。「……入っていいか」低い声。ひかるは振り向いた。「どうぞ」扉が開く。立っていたのは、藤崎優だった。タキシード姿のまま。ネクタイが少しだけ緩んでいる。きっと、急いできたのだろう。数秒、二人は何も言わずに見つめ合った。先に口を開いたのは優だった。「……おめでとう」短い言葉。だが、その声はどこか掠れていた。ひかるは微笑む。「ありがとうございます」優はゆっくりと部屋に入り、扉を閉めた。静寂が戻る。彼の視線が、トロフィーに落ちる。そして小さく息を吐いた。「やっぱりな」「え?」「取ると思ってたよ」ひかるは首を傾げる。「そんなに確信してたんですか?」優は迷いなく答えた。「ああ。本物だからな」その一言で——張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ。ひかるの視界が揺れる。あれほど出なかった涙が、急に滲んだ。慌てて視線を落とす。見られたくなかった。役ではない涙を。すると、優が静かに言った。「……怖かった」ひかるは顔を上げる。優は、まっすぐこちらを見ていた。「お前が遠くに行く気がして」時間が止まる。呼吸を忘れるほ

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第105話「主演女優賞、受賞の瞬間」

    都内最大級のホールには、眩いほどの光が降り注いでいる。一年に一度のドラマアワード授賞式。数えきれないほどの名作の中から、頂点が決まる夜。ひかるは、深いネイビーのドレスに身を包んでいた。過剰な装飾はない。だが、その佇まいだけで視線を引き寄せる。会場へ続くレッドカーペット。フラッシュが弾ける。「久遠ひかるさん、こちらへ!」「今回の受賞、期待されています!」「今のお気持ちは?」マイクが向けられる。ひかるは柔らかく微笑んだ。「ここに立てているだけで、十分幸せです」それは本心だった。少し離れた場所を、藤崎優が歩いている。黒のタキシード姿。無駄のない立ち姿。ふと視線が重なる。優は何も言わない。ただ、小さく頷いた。——大丈夫だ。言葉よりも強い合図だった。授賞式が始まる。重厚な音楽。ステージに立つ司会者。助演賞、脚本賞、監督賞——次々と発表されていく。だが、ひかるの耳にはほとんど、何も入ってこなかった。指先が、わずかに冷たい。そのとき。隣から低い声。「手、震えてるぞ」優だった。ひかるは小さく笑う。「少しだけ………優さん、怖いよ」優は前を見たまま、ひかるの手を握って言う。「絶対、取るぞ」断言だった。ひかるは優に手を握られたことに驚いたが、自分の手を引っ込めることはなかった。少し照れながら、優に聞いた。「どうして分かるの?」「毎日、隣で見てたからだ」その一言が、胸の奥に静かに落ちる。涙が出そうになるのを、ひかるはこらえた。やがて。司会者の声が、ゆっくりと響く。「……それでは、主演女優賞の発表です」空気が変わる。会場が息を止めた。スクリーンに、ノミネートされた女優たちの名シーンが映し出される。最後に流れたのは——「誰よりも、君だけを」。蒼一に背を向けながらも、涙をこぼす玲子。そして振り返る、あの表情。ざわめきが広がる。「これは強い…」「久遠ひかるじゃないか?」プレゼンターが封筒を開く。一秒が、永遠のように長い。ひかるの手を握った優の手に力が入る。そして——「本年度の、主演女優賞は……」紙を引き抜く音。微笑み。「久遠ひかるさんです!」一瞬。音が消えた。次の瞬間——割れんばかりの拍手。歓声。誰かが立ち上がる。また一人、立つ。気づけば、スタンディングオ

  • 誰よりも、君だけを―裏切られた私が、主演女優賞を獲るまで―   第2話 物置部屋の夜

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    ――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、今日が初めてだった。頬の奥が熱い。殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろきしゅんや)は見下ろしていた。そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。ただ、鬱陶しそうな視線。まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」低く、冷たい声。まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。ひかるは答えられな

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